弟が抱えるトラウマ

神谷 幸弥(さや)

2019-03-30
交際期間
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 後部座席にいる弟と私の様子が気になるのか、S男は車を発進させようとしなかった。

「運転手さん、何時までココにいるつもり?早いとこコイツを休ませたいんだけど」

「運転手って呼ばないでくれ」

「俺、アンタの名前、知らないから」

「それはコッチも同じだ。あんた、ユキミさんの……」

「俺のことより、とにかく早く車を出して。長く停めてて駐禁になってもしらねぇぞ」

駐禁という単語に反応したらしく、S男はようやく車のアクセルを踏んだ。


 車が走り始めてから1時間程度経過した頃には落ち着きを取り戻し、それに反比例するかのように尿意が高まっていた。

――そういえば、寮を出てからトイレに行ってない。
でも、S男に知られるのも癪だわ。

気を抜けば噴出してしまいそうで膝を擦り合わせていた時、タイミングよく弟が切り出した。

「あー、オジサン。トイレ休憩に何処か寄って?」

――もしかして、悠斗、気付いてる?

「そんな限界になるまで我慢すんなよ」
ぼそっと呟くような言い方から、弟の察しの良さに感心した。

「オジサンは止めてくれ」

「だって、アンタ、オニーサンって柄じゃないだろ。面倒見が悪そうだし。そんなことよりトイレ!車ん中ビショビショにしちまっても良いのかよ」

「随分と横柄だな。パチンコ屋でも良いか?」

「あー、俺、パチンコ屋に入れねぇんだわ。まだ16だし。コンビニ寄って」

「じゅうろくぅーっ?」

よほど驚いたのか、S男は素っ頓狂な声を発し後部座席を振り返った。その反動で車が蛇行し危うく対向車とぶつかりそうになった。

「あっぶねぇ……ちゃんと前を見て運転しろよ」

その後も、2人はコンビニに着く迄ああだこうだと言い合っていた。そのおかげで、私は押し迫る尿意から気を逸らすことが出来た。


 コンビニの駐車場に車が止まるや否や、後10分遅ければ、弟とS男の前で羞恥の姿を晒していたかもしれないくらい切羽詰っていた私は、脇目も振らずにダッシュで店内に入りトイレに飛び込んだ。

――ふう……ギリギリセーフ……

下腹部を圧迫していたものを放出し終わった時には、安堵のため息が出た。

トイレから出ると弟がコンドームを手に取っていた。年齢的には弟にも使う機会があって当然なのだが、あまり意識していなかった部分を見せつけられ戸惑ってしまった。

「そういうの、ユウも使うことあるんだね……」

「まぁ、俺だって一応……」

それまで一番身近だと思っていた弟が、遠い存在に思えて一抹の寂しさを感じた。

「そんな顔すんなよ。冗談だって。防具袋を届けてもらうのと引き換えに頼まれたんだよ」

「そう……なの?」

「そ。今のところ俺には用なし。てか、一生縁が無さそう」

「え?何で?ユウって女の子にモテそうだけど」

姉バカだとドン引きされるかもしれないけど、180cm近くある身長、剣道で鍛えられた筋肉、何処か俳優の石黒賢に似た面立ち、それらを持ち合わせている弟は格好良い男子の部類に入ると思っていた。

「うーん、そこそこ良い雰囲気迄いった娘はいるんだけど、女の子にキスをしようとしたら、いつも、あの時の怯えたお前の顔が頭ん中でチラついて、どうしても先に進めないんだよ」

淡々とした口調とは裏腹に、弟の瞳には悲しみと怒りがこもっていた。

あの時の変質者は裁かれ服役を終えており、世間的にはとうに終わっているにもかかわらず、1人の男の欲に満ちた心ない自分本位の行動は、直接被害に遭っていない弟にも大きくて深い心の傷を残していた。

弟の気持ちを考えると、やるせなさが込み上げくる。

「ごめんね……ユウ……」
堪らなくなり、弟の背中にしがみついた。

「お前が謝る必要はねぇよ。辛い思いをしてるのはお前のほうなんだから。あの人に何されたか知らねぇけど、お前の顔見りゃ分かるよ。今でも思い出してパニクるんだろ?」

「S男さんが悪いんじゃないの。観た映画がねぇ……」

「そんな事だろうと思ったわ。ガキの頃からお前を見てきたから、だいたい想像がつく。それより、この状態で俺に抱きついてると、こっちをガン見しているあの人に誤解されそうだけど良いのかよ?」

弟の言った通り【コンドームを手にしている若い男と、その背中にしがみついている女】の姿は、傍から見ると男女の仲だと思われるかもしれない。しかし、その時の私には正直どうでも良かった。

「誤解されても良いもん。今はユウの気持ちのほうが大事。これ私が払っとくね。さ、帰ろ?」

「んじゃ、頼むわ。俺もトイレしていくから、お前は先に車に戻ってろ」


 会計を済ませて車に戻ると、S男が運転席側のドアに寄りかかって腕組みをして立っていた。

――うっ……めっちゃ気まずい……
悠斗を待ってれば良かった……

「あの小僧は……トイレか……。まだ高校生だったとは思ってもみなかった」
独り言だと思い、聞こえていないフリをした。

「S男さん、今日はごめんなさい……。私、ああいう映画は苦手なの」

「それだけで、あんな風になったとでも?」

「何て言われても、詳しいことは言いたくない……」

「じゃあ、聞かないでおく。その代わりに俺との関係を終わらせない。良いな?」

「え?でも、私、S男さんのこと、関係を続けるっていうほど好きじゃないのかも……。だから……」

「好きとか、そういうのは関係ない」

感情のない冷たい口調に、背筋が凍る思いがした。


お読みくださり、ありがとうございます。

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